先日、アマゾンで購入可能な遺骨の永代供養サービスというものがあることを知りました。
はじめはアマゾン自体が事業主体なのかと思っていましたが、少し調べてみるとそれは民間事業者がアマゾンのプラットフォーム上で実施するサービスで、概要としてはアマゾンでキットを購入後、事業者から送付される骨壺キットや段ボールなどに遺骨を封入し、遺骨をゆうパックで臨済宗のお寺に送って永代供養を行ってもらい合祀の供養塔に埋葬頂くというもので、サービス利用料は55,000円だとのことでした。
参考リンク:ヤフーニュース「お寺とのやりとりなし!AMAZONだけで完結できる「遺骨永代供養サービス」」
自分は田舎の出身で以前に父と祖母を送った経験がありますが、過去30年間程度を考えても、もとは親族を集めて親族総出で四十九日までの行事をこなしてそのうえで遺骨を墓地に埋葬してひと段落というようなものであったものが、事業者側のサービスを前提として行う家族葬のような形が増えており、なるだけお金と人的な労力をかけずに簡素化していく社会の流れがあるように感じます。
無論、人が集まって協力を得て昔ながらの葬儀を行うということはそれだけたくさんの人の労力と時間を使うもので、この多忙な現代生活の中で「人に迷惑をかけぬよう」というのはとてもわかるところですので、昔ながらの葬儀と簡略化された葬儀のどちらが良いのかはわかりません。もっといえば結論はその家それぞれだろうとも。
ですがこの「葬儀の簡略化」という全体的な傾向はやはり手放しで良いと思うものでもなく。
加えてこうした葬送の簡素化の流れがあるといえど、中には葬送のためにとてつもないお金をかける方がいることも事実で、「第9運の予測」の記事で少し挙げさせて頂いた宇宙葬などはそうしたものの代表例でしょう。
この記事はこうした葬送の多様化について、私なりの観点から私のごく個人的な考えを記した雑記文です。
1.文明の発達以前の葬送のこと
イスラエルの歴史学者ユヴァルノアハラリ氏の「サピエンス全史」によれば、それまで狩猟採集によって生活の場を変えながら生きてきた現生人類(ホモサピエンス)は紀元前9500年~8500年頃にトルコ南東部やイラン西部、レヴァント地方、またその他の各地で同時発生的に農耕を始め、定住という選択肢を手に入れたとされています。(※定住の開始時期については諸説あり)
そしてその農耕により安定的に食料が確保できる体制を整えたことにより集団生活が始まり、それが文明の発達に繋がったのだと。
ですが、実は人類の故人の葬送の歴史はそれよりも古いと言われます。ナショナルジオグラフィックの記事から2,3の例を引用させて頂きます。
ケニアの洞窟で、約7万8000年前の現生人類(ホモ・サピエンス)の墓が発見された。アフリカで見つかったものとしては最古だ。そこには誰かが注意深く埋葬した2、3歳の子どもの遺体が納められていた。論文は5月5日付けで学術誌「ネイチャー」のオンライン版に発表された。
研究報告によると、ネアンデルタール人たちは故人のために、細心の注意を払って墓穴を掘り、遺体を腐食動物から守っていた。少なくとも5万年前の人類の間に、入念な埋葬の習慣が存在したことが確かめられた。
墓地を花で飾る献花は世界中で広く行われている。この慣習の存在を決定づける最古の証拠として、古代の墓地の土から花や茎の痕跡が発見された。 その現場はイスラエル北部カルメル山の洞窟にある、約1万2000年前の墓地。ミントやセージといった香りのある草花が土に還った後、その痕跡が柔らかい泥に刻まれていたのだ。
これらの事実が示すことは、人が近しい故人の遺体に対して抱く葬送にまつわる特別な感情は集団生活の中での社会的ルールや、文明発達以降の宗教などの体系的な教義などが構築される以前から存在していたということ。
それっていわば「故人の葬送という行為が人にとって原初的な欲求、あるいは根源的な思考体系の一つ」であることを示唆するものではないかなあと個人的には考えるところです。
ですが同時にそこから思うことは、社会成熟が進んで社会内における役割の分断、専門化が進む中で故人の葬送というものが「遺族側が自分たちの意思のもとで自分たちが行うもの」から「可能であれば簡素化したい社会的義務であり、金銭を払う対価としてサービスを享受するもの」というような考え方が徐々に増えてきている・・・のかもしれないなあとも。
多様化する葬祭と弔い不足への後悔
現代日本における葬送の(超個人的)分類
では現代においての一連の「葬送」とは何を指すのだろうかと考えてみたのですが、たとえば現在の日本における葬送は、①葬儀などの式典の扱いをどうするのか、②遺体をどうするのか、最後に③お墓をどうするか(遺骨をどう埋葬するか)という三つの側面から成り立つのではないかとわたしは考えています。
もう少し具体的に言えば①の葬儀などの問題においては、
A | 特定の宗派における僧侶や神官らを呼んで宗派に基づく供養を伴った葬儀 |
B | 宗教的な要素を省略した自力葬、お別れ会など |
C | 葬儀等を行わない |
といった選択肢は原則として遺族側の裁量による選択が可能でしょう。
つぎに②遺体の処理については「墓地、埋葬等に関する法律(墓地埋葬法。下部法令に墓地埋葬法施行令)」というこれらを定める法令の中では火葬は義務ではないながらも、各地方の条例等で扱いを定められているものの中で実際問題として現代日本の生活では火葬以外の選択肢はあまり見込めるものではないのかなと考えているところです。(ただし、日本においても土葬の習慣はかなり長く残っていたもので一部の特殊な例では現在もそうした実例も残っているようです。)
最後に③埋葬としては以下のような選択肢があるのではないでしょうか。
D | 公営、民営、宗教施設等の運営する共同墓地内で墓地の貸与を受けて墓石等を建立しそこへ埋葬し、お墓を家族、子孫で管理していく |
E | 永代供養を行い納骨堂等の共同埋葬地へ埋葬し個々の家族によるお墓の管理を行わない |
F | 樹木葬や海洋散骨等の自然葬等 |
G | その他、自治体から認可を受けて個人墓地等へ埋葬など |
こうした中で、もともとは寺院などで親族総出の葬儀を行い火葬場に親族で訪れて火葬を行い、地域指定の墓地へ遺骨を埋葬という流れが圧倒的多数派であったものが、現代においては一連の流れが簡略化している現状があり、そうした流れがコロナ禍を経て一層進んだ印象を受けているところです。
始めに挙げたアマゾンで購入可能な永代供養サービスは③埋葬に関する最も簡素化された形の一つであるかと思いますが、そのサービスを利用される方の多くは葬儀においても簡素なもののみで済ませる方、あるいは実施しない方が多そうだと考えるのは私だけではないでしょう。
葬送の一般的コストと香典について
こうした葬送の簡略化の背景にはいわゆる人同士のつながりの希薄化と金銭的な問題が大きいのだろうと考えますが、たとえば一般的な葬儀の流れや葬儀を検討する際に注意すべき点やマナーなどについては下記「葬儀と葬式、告別式の違いとは?宗教宗派別の葬儀の意味や費用相場も解説」に詳しいですが、一般的な葬儀の平均費用は191万円程度、家族葬では110万円程度、一日葬、直葬で45万円程度とされています。
このサイト「みんなが選んだ終活」は葬送に関しての情報がとても豊富ですのでそうしたことを検討される際には確認いただいて良いのではないかと思いますよ。
たとえばお金をかけてたくさんの人に来てもらって立派に故人を送る葬儀を行ったほうがいいと言ってみたところでこうしたお金の問題が重要であることは言うまでもなく、そうした金銭的な負担を小さくしたい、またもともとが地域的な繋がりの希薄化している現代において、自身のみならず多忙な日々を送る繋がりの薄い親族らの時間を使って協力してもらうことも忍びないという中で葬儀は簡略化の一途をたどっているのだろうと。
金銭的な問題においては過去から同じ問題は付きまとっていたものを「地域の全体で一個人の葬送にかかる負担を分配する」というものが香典のはじまりであると考えられるものですが、そもそもその地域の結びつきの希薄化がこれだけ進行している中でそうしたものを今後は見込むことも難しい。
ご参考までに、地域の中での協力を受けられない状態を指す「村八分」という言葉は全体の八割を指す言葉で、その例外の二割は火事と葬儀を指すそうです。つまり村八分のような状態においても火事と葬儀だけは地域を挙げて協力すべきものだというのがもともとの日本社会における共通認識だったということかと。
また自力葬においては金銭的なコストカットの意味合いはあるにせよ、そこには遺族側が故人の葬送のためにかける人的コストという点においては必ずしも簡略化と言えるものでなく、この簡素化という流れの中では一部異なる流れにあるものと言えるのかもしれません。
簡素化された葬送に後悔する方の増加
とはいえ・・・こうした葬送の簡素化の裏には、「故人を弔いきれなかった」と後悔に悩む方も多いとのことで、下記の2017年の調査によると葬送について「弔い不足」を感じた経験のある方は実に全体の45%にも上ったのだとか。
このような弔い不足に悩む方の数はコロナ以降にはさらに増えていそうな気もするところで、そうした後悔に悩む方が「骨葬」という、いわばお葬式のやり直しのようなものをお寺に依頼するケースも増えているのだとのことです。
もちろんこうした問題は一般化して語るべきところではなく、個々の家族における関係性が最も重要な要素だと考えています。
わたし自身行政で福祉事務所で業務を行う中で、実の親が逝去された旨を実子に連絡しても「顔も見たくないし私らが葬儀を行うつもりもないし、火葬を行いたくもないし遺骨も観たくない。だから行政で遺骨の処理まで含めてなんとかしてほしい」といった申し出を受けた例は一度二度ではありません。(いわゆる「福祉葬」というものに該当するのかと。)
またそうした申し出を頂いてもその方らの以前からの経緯を聞く中で「その立場、その過去があれば自分でもそう考えるだろう」と納得してしまうこともしばしばで、家族の絆だなんて耳障りだけ良い言葉を言ったところで実態はほんとうにさまざまであることはある程度は理解をしているつもりです。
(余談ですが「絆」という漢字はもともと「ほだし」と読んでいたもので、その意味は「馬などの動物の自由を制限するためにつないでおく綱。」、つまり「しがらみ」と同じ意味です。しがらみの伴わないきずなはなく、きずなの伴わないしがらみもまた無いということなのでしょうから結局はそのバランスと中身が大事なのかなと。)
ただ、そうした福祉葬を行った例においても、その後一定の期間を経た後に「以前はああ言ったが、遺骨の埋葬された墓があるなら参って手を合わせたい」、「もし遺骨がまだ残っているなら引き取りたい」といった申し出を受けたこともままあり、人の気持ちや考え方は時間とともに変ることもあるものだとも思います。
基本的に葬送というものはやり直しのできないものだからこそ、先にある程度はそうしたことを考えておく方が後の後悔に繋がらないのかもしれません。たとえそれは家族関係が希薄な間柄であってそうですし、たとえばふだんは会うことのない親族であってもそうした一人の人間を共に送る機会を経て仲が深まるというのはかつてはよくあることだろうと考えていますし。
こうしたものを考える中では「死にゆく私が負担をかけたくない」という本人の気持ちと、「身近な故人をきちんと弔ってあげたい」という遺族側、知人側の気持ちの交錯するところにあるものなのでしょう。
「陰宅風水」(お墓の風水)について(ただし私は扱えません)
陰宅風水(お墓の風水)について
そうして葬送について考える中で、わたしが扱わせて頂いている風水というものの源流は、「祖先信仰のためのお墓(陰宅といいます)をどのような場所に祀るかによって、好ましい影響を子孫に及ぼす」ことの研究にあるとされます。
つまり本サイトで紹介させていただいている住宅などを見るための風水技法以前に、「王族らの墓をどのような土地にどのように造ればその子孫たる現王が恩恵を受けることができるのか」という研究がなされていたということで、それはつまり「お墓の風水というものに代々の王族が満足するだけの結果が見込まれたからこそ一般の住宅を観るための風水技法が発達した」と考えることができるものです。
先日、佳子さまが昭和天皇のお墓である武蔵陵墓地を参拝されている映像をニュースで拝見しました。この武蔵稜墓地においても、どのような経緯でこのお墓の建立に至ったのかは私にはわかりませんがその外観を見る限り風水思想の影響を受けているのではないだろうかと考えるところです。
ご参考までに、この節の初めに挙げた画像は台湾で「経営の神様」と称される台湾屈指の大富豪、王永慶氏の祖母のお墓の写真です。外観のみの比較で恐縮ですが酷似するところがあるのではないかと思いますし、下記サイトや張玉正先生の「帝王風水」などにその内容にかかる記述がありますので気になる方は見てみて頂けたら。
参考リンク
易正时空风水法师 曾子南点葬王永庆祖坟金狮坐北斗穴研究图解 (88s1.com)
参考書籍:張玉正先生著/林秀静先生訳「風水開祖・揚救貧の帝王風水」
陰宅風水のハードルの高さとその影響について
先に書いたように風水においては「故人のお墓(陰宅)というものは、その遺族や子孫の人生に影響を与える力がある」と考えるもので、その力は大きいものだとされています。
と、そうはいえどこの種の陰宅風水の問題を考えていると、集団墓地が圧倒的多数である日本において「風水上良いお墓をつくる」という目的のために先祖代々のお墓を移転するのはなかなかにハードルは高く、新規に墓地購入を検討しているなどのケースでもなければなかなか難しいところもあるのではないかと考えてもいるところです。
また、どうしてもお墓が実際に必要となるタイミングというものは測れないために本人の了解を取るという作業は(そのご本人がよほど風水などに理解のあるケースでもなければ)ほんとうに難しい。
お墓というものが故人と家族だけの問題でなく、墓地埋葬法などの規定があって、その故人の兄弟知人や親戚友人らがお参りする場でもあり、生活圏から遠くなれば管理やふだんのお参りそのものが大変になることを考えてしまうと実際問題として選択肢としてはかなり限られてくるなあと感じるところで、正直なお話としてわたし自身自分の家のお墓を考えても風水理論の中で良いお墓をつくることができるのかはなかなか悩ましい問題だとも考えてしまうところですが・・・。
ただしそのようなハードルの高さはあるものの、陰宅風水は先に述べているように「風水の源流」でもあるもので、ケースによっては住宅の風水と同等以上の力を持つものだともされています。
そもそもそうした研究を基にして風水の歴史は始まっており、そのお墓の風水というものが歴代の王朝を満足させるだけの結果を示したからこそ現在にまで至る「風水」というものが受け継がれているのであろうというところですから。
また、こうした陰宅風水というものが西洋科学にもとづく世界観の中では到底説明のつかなさそうなものであることから、これらは現代の一般的な西洋科学の概念で推し量れないものが存在している可能性を補強しているものなのではないかなあとも・・・。
お墓の風水に関して鑑定可能な先生はごく一部ですのできちんと鑑定士の先生を選んでいただきたいというお話
見てきたように風水においてお墓というものはとても重要な位置を占めるものです。
ただしお墓の風水についてはそもそも私自身の知識と技量が明らかに不足している上にお墓の風水というものは各種の理論に対する知識のみで対応ができるものとは考えておらず、私の能力を超えたものであるために私はお墓の風水について扱うことはできません。
・・・ので、もし陰宅風水の鑑定や相談などを検討されている方は、そうしたことをきちんと扱っている先生方にご相談頂くのがよいのではないかと考えています。
また、この陰宅風水について少し補足しておくと、風水業界の話ではありませんが過去に有名な占い師の方がそうしたお墓を良くするための処方として自身の紹介する業者からのキックバックなどを含めて高額なお金を得ていたような事例は複数耳にしていますし、たとえばスピリチュアル界隈やカルトなどを含めた宗教組織においても、おそらくは最も高額なお金の動きが多いものがこのお墓の問題だと考えています。
要は、「あなたの身に不幸が次々と降っているのはお墓の状況から先祖供養が悪いからだ!だからそこから救われるためには我々のお勧めする墓地に~の業者だけが準備できる特別な墓石を使用してお墓を建てるしかない」という口上が往々にして存在できてしまうということです。
またわたしが知りうる限り、この中国風水の世界においてきちんと陰宅風水を鑑定できる力のある鑑定士の方は日本では指折りの先生方しかみえないだろうと考えています。ですからそうしたことを求める方はどうかきちんと知識、経験のある信頼のできる先生を選んでいただけたらと強く願います。
葬送は故人のためか?遺族のためか?
葬送の際に周りにたくさんの人がいるということ
さて、前節に述べたお墓の風水効果の話はいったん脇においても、わたし自身はこれらの葬送というものには故人のため、どいうものだけでなくて「遺族側の意思、感情の整理のためにもなっているのではないか」と考えています。
葬送の簡素化という大きな流れの裏に、それに後悔する中で骨葬などの「お葬式のやり直し」を希望する方が増えつつあるということは先にも書いた通りですが、
こうした葬送というものは往々にして急に降りかかってくる悲劇の中で喪主側の思考がまともに働かないうちで実施を余儀なくされることも稀ではありません。
また、葬儀というものは昔ながらの作法に則れば則るほどに遺族側のすべきこと、決めることはほんとうに多く、そうしたたくさんの行事を、故人の葬送のため集まってきてくれる知人親せきらと協力してこなしていく、また、たまにしか集まらない親族らが故人の昔話などをして時間を過ごす中で、最も苦しい時期を遺族が少数でただ落ち込んで過ごすことなく皆で感情を共有するための昔ながらの知恵であったのかもしれません。
あるいはその意味で言うなら家族の急な死というものに動揺する家族ではなくて、そこで遺族ともう少し距離のあり、そうした親族の葬送に携わった経験のある年長の親族らがその場にいてこうしたことを仕切ってくれる方がいたのがかつての葬送のあり方だったと考えていますが、とても理にかなったものだし遺族側からすればそれほど心強い存在はないものではないかと思いますし、自分自身の経験がそうであったため、その場にいてくれたわたし自身の親族に対する感謝を忘れることはありません。
またこうした葬送について考える時には、先にも書いたように「先々の自分自身の葬儀、お墓を考えること」と、「自分の家族に何かあったときに家族の葬儀、お墓を考えること」が全くの別物だということはいうまでもなく、そこには故人に対する遺族側の感情を抜きにして語れるものではありません。
「死にゆく自分」だけにフォーカスを当てたならば「自分のための葬儀など簡易な最低限のものでよい」と考える方の方が多いのではないかと思いますが、それが「自分の大切な家族を送る」という場において考え方が異なってくるのは当然の話でしょうから。
死の受容に係る心理的過程について
ここで少し視点を変えますと、アメリカの精神科医の大家にエリザベス・キューブラー・ロスという人物がおり、そのロス女史が「死ぬ瞬間」という自著で示した、人が自分の死を受容するまでの心理的対応の5段階の分類があります。
1 | 否認 |
2 | 怒り |
3 | 取引 |
4 | 抑うつ |
5 | 受容 |
つまり余命宣告などの人生を揺るがす事態に対し、人は「そんなはずはない!何かの間違いだ」と事実を受け入れることを①否認する心理的段階があり、「なぜ人を苦しめてばかりのあの者でなく私にばかりこんな不幸が訪れるのか」などと②怒りを感じる時期がある。その後に「なぜこのようなことが起ったのか、私が生きた意味というものはあったのか、どのような形であれば私の人生に意味づけを行うことができるのか」と問う③「取引」と呼ばれる段階があり、それが済んだ後に半ば諦観にも近い④抑うつの期間を経た後に自分自身の中に自分の死という現実を統合ができるようになって最終段階の⑤受容に至るケースが多いと発表したものです。
参考リンク:ウィキペディア「死ぬ瞬間」
参考書籍:エリザベス・キューブラー・ロス先生著/鈴木晶先生訳「死ぬ瞬間」
この分類は人生における様々な不幸に直面した際の心理機構にも応用が可能ではないかと私は考えており、たとえば自分自身でなく身近な家族の死というものに対する人の心理的受容の段階においても似たことを言えるのではないかと。
つまり身近な人の死に直面したある方にとっては「適切に葬送を行うこと」というものがロス女史のいう③の「取引」に該当する可能性は大きくあると私は考えており、それはたとえば「それまで仲違いをしていた兄弟や親族が父や母の死をともに悼む中で協力して親のために葬送を行うこと」によって身近な家族の死に意味づけを行うことであるかもしれませんし、またある人においては「母が好きだった音楽をたくさんかけて、あるいは父が好きだった山の写真をたくさん飾った祭壇を作って同じように逝去を悲しむ親族知人らとともに故人を悼む」というような葬送のあり方そのものが遺族が家族の死を受け入れていく心理的段階におけるひとつの通過儀礼として作用する可能性が大いにあるということ。
もちろんこれらの5段階を考える上においても葬儀や四十九日、一周忌といった通過的な儀礼が済めば「取引」の段階は終わって心理的に受容ができるというような簡単なものではなく、そうした感情、思考は数年、あるいは十年以上にもわたって何十回も何百回も繰り返すだろうものでしょうが、そうした繰り返しというのは日にち薬ともいうように時間が過ぎれば当初の突き刺すような感情は少しずつ薄れていくものだと私は考えており、そうした「最も苦しい最初期をたくさんの人とともに過ごし、節目の時期において個人を悼む同士が集まって行事をこなすことそのものが時が過ぎる助けとなる」という側面が葬送の一連の儀礼にはあるのだろうと。
ですからそうした意味においても、葬送というものはきちんとするほうがよいのではないか、それはきっと(風水などのメリットデメリットというようは話を除いたとしても)遺族側のためにもなるのではないだろうかというのがわたしの個人的な考えです。
どれだけ文明が進んで科学が発達したところで、文明発達以前から葬送を重要視してきた人間心理のあり方が変化しているわけではありませんから。
故人と遺族の関係性と葬送に対する感情と準備
とはいえ誤解なきように少し補足をしておくと、金銭的な問題などで葬送を簡素化することそのものは無論とがめられるはずは無く、お葬式などのために遺族がひもじい思いをせねばならぬ状態というのは明らかに不自然なことかなあとも考えていたりもします。
またそれこそ家族形態そのものやいわゆる毒親が数多の問題の源泉となっている中ですべての方において葬送をきちんとするべきだなどと言えるはずはなく、あくまでも「自分自身の心情と金銭的な状況が許す限りにおいて」という原則は頭に留めておいて良いのではないかと。
たとえば自分自身が他界した後に仮に意識というものがあるのだとしたら、「全く自分のことを好きでなかったわが子らをはじめと親せきらが嫌々ながら虚勢を張って義務的に形式だけの華美な葬儀を行い、豪奢なお墓を建造しようとしている」というのはどう考えても気持ちのいいものではありません。それが「遺族側の世間的な見栄や風水的な利益のため」ならなおさらですし笑
そう考えるとやはり、そもそもこうした葬送のあり方というものは遺族の感情というものや生前からの故人と遺族の関係性とも関連付けて考えるべきもので、原則として葬送というものは何らかの手段ではなくて葬送そのものを目的として行うべきものではないか、自分の近しい人間に対しもともと敬意を持てる関係性を築けていることがいちばん大事なのではないだろうか、死というものが誰しも逃れられるものでない以上、死や葬送に対することはある程度考えておくべきことなのじゃないか、なんていうのがわたしの考えです。
そのうえで故人を取り巻く周囲の方々と遺族自身らの感情面、金銭面などの折り合いのつく範囲においてきちんと弔うということ、またそうした葬送についてはある程度どのような形があって一般的な相場や事情がどのようなものであるのかはある程度事前知識を持っておくことが良いのではないかなあなどと、そんなことを考えています。
おわりに/「心霊現象」などに関する少しだけの私観
最後に少しだけいわゆる霊能力というものや、こうしたお墓などにかかる霊感商法などに関する私見を書いておきます。
まず大前提として、故人の意識や霊魂といったものが存在するのかどうかは私にはわかりません。
とはいえそうしたものがあったとしても驚かない程度の話は様々な方から伺っているところですし、実際にはこうした陰宅の風水を考える中では常識的な理屈の中で説明のつかない事象があることも諸々お話は伺っているところです。
このサイトでもしばしば「安易にスピリチュアルを説く人はわたしは信用しない」旨を記載しておりますが、私自身が霊的能力を説く方を真っ先に疑うケースは、「そうした霊的能力があると本人が説くことでその話者本人に金銭的メリット、あるいはユーチューバー等の発信者が注目を浴びて登録者増加を見込む等の発信者側のメリットが明らかである場合」です。
そうした明らかなメリットがなくても嘘をつく方もいるとは思いますが、それでも「お金、あるいは自身のメリットのために嘘をつく方がいることは明らか」である以上、そうしたことを説く方が信頼できる方かどうかは自分自身で慎重に見極めるべきだというのが私の考えです。
(無論テレビに出るような有名人も同じです。仮に私が3000万円程度のお金を積んで日本のテレビ局上層部に「私に霊的な能力がある内容で番組の構成脚色を行い、私に密着した体の一時間番組を作成してほしい」と依頼を掛けた場合にそれを「霊感商法まがいの手伝いはしない」ときっちりテレビ局側が断ってくれるかどうか、あるいは私がテレビ局の上層部に強力なコネがあるような場合にその上層部を通じて依頼をかけた同種の話をきちんと断ってくれるかどうかには甚だ疑問が残りますので。)
逆に、私が信頼を置く方々が何のメリットもなくそうした実例を語っていただいた経験もままあります。たとえば私の公務員時代の同僚からそうした話を聞かせてくれた方も一人や二人ではありませんし、そうした霊的な世界を扱わない方々の語る風水の中にもやはり心霊現象というものに対する実例というものは多数存在し、生業としてそうしたことを扱う方の中にも信頼のおける方々がみえることは私自身も聞き及ぶところです。
何なら私自身もそうした感覚は全くありませんが、自分の生まれ育った地域にそうしたことを扱う方がかつていて、その方にまつわる「どう考えても説明のしようがない話」などは複数聞いていますし、もっといえば父の葬送の際などに私自身が不思議な体験をしたこともありますし。
もちろん自分自身の経験も含めてそうしたもののすべてが真実であるはずはなく、見間違いや聞き間違い、あるいは心理的な思い込みによる集団幻覚のようなものが一部含まれるのだとしても、それでもそれらの全てが「でたらめだ」などと断定するのはあまりにも横暴ではないかなあと。
たとえ第三者からみて証明が不能で事実はわからないものだとしても、そうしたものについて現時点で言えることは「あるかどうかわからない」というところまでのもので、私についても自分自身がわからずもちろん証明ができるものではありませんので、「絶対にないと断言はできないから、そうした霊魂、あるいは死者感情のようなものがあった場合に彼らに対して失礼になるようなことはしたくないしすべきじゃないだろう」という程度の認識です。
ただ、そうしたものは嘘をつかれてもそれを見抜くことが難しいものだとも思う以上、そうした嘘を混ぜて金銭的なメリットを得る商売というのは(モラルさえ無視すれば)容易なのだろうとも思いますし、葬送というものは身近な人の死を扱うとても大切なものだからこそ、そうした霊感商法のようなものが跋扈しやすい業界であるとも考えるところです。
だから自分自身の身近な方の死に際してその種の発言をする占い師などがいた場合には、その発言の先の意図がどのようなものなのか気を付けて話を聞くべきだし、その発言をした方が信頼できる方かどうかは個々に人を判断していくしかないのだろうというのが私のスタンスです。
またこうした葬儀、葬祭というものはやはりとてもとても個人的な経験の中で語るべきもので、私自身も自分の経験を抜きにしてこうしたものを考えることはできません。
ですからこうした問題はあくまで家族間各々の事情によるものだというのが原則で、福祉葬のような故人の葬送に関わりを持たないことを選ぶ方を責める権限は誰にもないし、とがめられるものではないだろうと。
また、私自身は過去に5年間程度消防署に勤務させて頂いていたこともあるのですが、そこでは救急隊員として数多くの「突如降りかかってくる死」というものを見てきました。
事故や急病といったものも含めてこうした事柄は日常から予期することは不可能で、人間のコントロールできる範疇を超えたところに存在するものではないかというのは私の考え方の根っこにあるもののような気がします。あるいはそうした自分たちでコントロールできない何がしかを指してわれわれは「運」や「運命」なんていう言葉を使うのかもしれません。
それに人の死がいつ訪れるかわからないからこそ、こうした葬送というものは往々にして「突如段取りも通例もわからぬままにすべきことが多々降りかかってくる中で選択を迫られる」ことが数多いと感じます。
またそれがゆえに一般的な価格と比べてあまりに高額な葬送を勧める悪意のある業者等もまた存在するのだろうと思いますので、そうしたことが降りかかってくる前に最低限の知識として一般的な葬送にかかるコストや一連の流れというものを知っておくことは拝金主義の業者らに騙されないようにするための自衛のひとつにもなるものではないかなあというのがわたしなりのこうした問題に対する現時点での結論です。
それではこの記事はここまでです。葬送に関する私見だけを書くつもりがわたし自身の死生観のような話になってしまった気もしますが・・・この記事における内容はあくまで私の個人的な考えで、風水を専門に扱う方がすべて同じ意見を持っているわけではもちろんなくて、これらの内容はごくごく個人的なわたし自身の考えであることは最後にもう一度お伝えさせて頂けたらと思います。
死というものが誰しも避けられないものだからこそ、自分自身の人生も、様々な相手とのやりとりの中でもよりよく生きれたらいいよねなんてことを思ったりしますよ。ちなみにわたしの座右の銘?座右の詩?は于武陵の「勧酒」です笑
ここまで読んでいただきありがとうございました。
このサイトは主に風水や四柱推命などを扱うものでお墓に関する記載などはこの記事のみとなります。
たとえば家相でいうところの「鬼門」というものは中国風水では扱うものでなく、以下の記事にわたしの鬼門に関する知識は紹介させていただいているところです。
それらの記事も含め、風水等にも興味を持っていただけるのであれば別の記事も見てみて頂けたらうれしく思いますよ。
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