≪風水師が本気で考察≫家相の鬼門と中国・インド風水の北東

 「鬼門」。気にしなくて良いと言う専門家がいれば、別の方は絶対に玄関やキッチン、水回りを鬼門の方角に配置することはぜったいに避けてと言います。

 どっちなんだい?と思う方は数多いのじゃないかと思います。

 ですがこの鬼門について、これだけ有名な概念であるのにも関わらず鬼門に関する専門の研究書はほぼありません。「鬼門は避けるべし!」という言説やネット記事は恐ろしく多いのですが・・・。

 また、鬼門は避けるべきとする論は多くとも、鬼門がなぜ悪いとされてきたのかという由来とどのように悪いのかという内容まで記して北東方位を論じる文献やネット記事はそう多くはありません。

 それに加えて、この鬼門を論じる際に「家相」という言葉を使う方がいれば「風水」という言葉を使う方もいます。

 ここでわたしの考えを先に書きますと、風水は広い意味で言えば「地理、方位、山川、建築物といった諸々の環境から人間が受ける影響の研究」だとわたしは考えています。ですから中国風水も家相学もこの広い意味で言えば風水という言葉の中に包含されるものだと私は考えています。

 そして狭い意味ではおそらく自身が信じる風水の技法、つまり私は中国伝統風水のことを「風水」と呼んでいるし、家相学諸派の方々は自身の家相学を「風水」と呼ぶこともあるのでしょう。

 家相学は中国で始まった風水が日本に伝わった後に日本で独自に進化を遂げたものですが、現在も諸外国で使用される中国伝統風水とは大きく内容が異なるものです。

 もっと言えば、いまの日本においては「風水」という言葉の中でこの家相学と中国風水、またお掃除風水やラッキーナンバー、果ては財布の色といったスピリチュアルなものまでが一括りにされているきらいはありますが、それらは本当に大枠の環境学という一面でつながりはするものの、実態は全く異なるものですしラッキーナンバーや財布の色は中国風水にはほぼ関係のないものですよ。

 そして、話を鬼門に戻しますと現在の中国風水において「北東を一律に避ける」という概念はありません。

 とはいえこれだけこの鬼門という概念がこれだけ日本で広まった背景にはなにか事情があるのではないかと思う中で、わたしなりにまとめようと試みたのがこの記事です。この記事が鬼門に悩む方の助けになれば幸いです。

 この記事は大まかに分けるなら①鬼門の定義、②鬼門の起源、③鬼門にかかる先行研究と鬼門を使用していた偉人宅、④中国風水による北東の扱いとその実例、⑤インド風水における北東、⑥結論という6部から記事を構成しています。

 ちなみにわたしがいま時点での結論を先に言いますとつぎのようなものです。

 「現在の中国風水において北東方位を一律に悪いとすることはなく、方位の吉凶は物件によって異なるもの。ただし北東鬼門の概念の一部はインド風水においても似たものが見られる」

 という、正直言ってとても締まらない結論ですが・・・笑

 なお、この記事は鬼長いです。下手するとちょっとした論文程度には長いかもしれません・・・

 が、この記事をしっかりと呼んでいただけるならある程度鬼門というものについて盲目的に避けろという話に信憑性があまりなさそうかもと思っていただける程度の知識は得れるのではないかと思います。

 また飛ばし読みができるように各節の冒頭に要点だけをまとめたボックスを作ってありますので目次の項目で大まかな話の流れはわかると思いますし、各項目のボックスを読んでいただいて内容まで詳しく知りたいところだけ内容まで読んでいただけたら良いのではないかと思いますよ。

「鬼門」という概念は日本独自の「家相学」において重視されるものですが、台湾や香港などの中国文化圏、また欧米諸国などで信用され使用されている中国風水に北東方位を一律に恐れる概念はありません。

ただし北東という方位の善し悪しはその家によると風水では考えるものです。

が、インド風水にも似た概念が一部見られる模様です・・・。

目次

≪風水師が本気で考察≫家相の鬼門と中国・インド風水の北東

日本の家相学と鬼門・裏鬼門について

  • 中国から伝わった風水が日本で独自進化したものが家相学(≒九星気学)
  • 家相学では北東を「鬼門」南西を「裏鬼門」として悪いものとして扱う
  • 北東(や南西)を一様に不吉なものとする概念は日本独自のもの

 「家相学」とははじめに述べたとおり、中国で始まった風水思想が日本に伝わってそれが日本で独自に進化したものです。

 もう少し詳しく言うと、風水というものは今から4000年以上前の中国が発祥で、飛鳥時代~奈良時代に仏教とともに中国から日本に伝わり、その後日本で独自に進化して現在の家相学の系譜となっているものだと考えられています。※諸説あります。

 そして家相学におけるいわゆる「鬼門」というものは八方位区分における北東を指し、そして鬼門の反対方位である南西については「裏鬼門」と呼ばれ、そのどちらも不吉な方位として扱われるものです。

 ですが現在の中国風水においては北東、あるいは南西を一律に悪いとすることは無く、そもそも鬼門という概念は現在の風水思想の中には無く、その意味で鬼門は日本だけの概念だということができるものです。(「九星気学」も家相学と類似の思想ですよ)

 ではこの鬼門とはどんな根拠から生まれた思想で、北東という方位は様々な風水技法の中でどのように扱われているのでしょうか?

 はじめにこの家相学における鬼門の概念をおさらいがてらまとめてみます。まずは鬼門の方角についてです。

鬼門の方角の図解

  • 家相学内の中でも北東45度、もしくは60度を鬼門とする流派が存在
  • 裏鬼門も同様に南西の45度と60度に分かれる
  • 流派によって中心の取り方は異なる

 ここで鬼門の該当する方位をもう少し詳しく説明しますと、家相学における住宅を観るための方位の取り方は①360度を8方位均等に45度ずつ分けたうちの北東方位45度を鬼門、南西方位45度を裏鬼門とする見方、②8方位のうち東西南北は30度で北東、南東、南西、北西の4方位を60度と分けたうちの北東60度を鬼門、南西60度を裏鬼門とする、その二つの見方が一般的なものとなります。

 言葉だけではわかりづらいので図解しますと・・・

①8方位すべてが45度ずつの流派

②8方位の内東西南北が30度、北東、南東、南西、北西が60度の流派

 このような形になります。2つの画像は北を上にして書いていますが、見てわかるとおりとても範囲が広いです。実質4分の1ないし3分の1の方位が該当するわけですから。

 そして、この北東、南西といった方角はどこを中心にして方位を測るのかという話ですが・・・実は流派によって異なります。

 が、この記事においては「建物の中心から方位を測る」ものとして文章を進めます。おそらくそれが現代の鬼門論において最も言われていることだと思われますので。(この「どこから方位を取るのかという」点については最後にもう一度触れます。)

鬼門と玄関/キッチン/お風呂やトイレ等の水回り

  • 家相学では「玄関、キッチン、お風呂、トイレ」が鬼門や裏鬼門に来ることを嫌う
  • ・・・が、それ以上詳しい実例などは私は聞いたことはありません
  • 鬼門方位に玄関を持つ家の住人のことを皆さんで考えてみてください

 ここでは鬼門にあっては悪いとされているものをざっと書きおこしてみました。家相学内の流派の違いによっても扱いは異なるものの、一般的に言われている原則は「玄関とキッチン、お風呂やトイレなどの水回りを鬼門、裏鬼門の方位に配置しないようにする」というところです。

 ただし、この鬼門にこれらの玄関などを配した実例においてどのようなことが起こったかという実例に関してはわたしは知りません。家相学に対して浅学であるために知らないだけという可能性はあるのかもしれませんが・・・。

 が、間取りまではわからずとも実際に北東や南西方位に玄関がある住宅ならば皆さんの周りにいくらでも実例はあろうかと思います。

 たとえば皆さんの知り合いの中や近所の家々などで、北東に玄関を持つ家を10~20件程度自分の中で思い浮かべてみればある程度鬼門の起こす象意の傾向性は見えてくるはずです。

 ですのでそれらを考えてみたときに「北東玄関やっぱり悪いかも」と思わないのであればそれはこの問題を考える上でひとつの結論となるものですよ。

平安京、江戸都市計画における鬼門と鬼門封じ(鬼門除け)

 こうした鬼門の根拠、あるいは実例としてよく語られるものに平安京や江戸の街における都市計画としての鬼門の扱いを挙げることができます。

平安京の都市計画における鬼門対策

画像引用元:観光京都.ねっと「風水の京都」  

      マイナビニュース「京都府は風水に基づいて設営されている!? 京都散策では鬼門方向にご注意を」

  • 平安京の造成には風水思想が取り入れられている
  • 京都は風水でいう吉祥の土地「四神相応」
  • 平安京の北東、南西にはそれぞれ神社等が建立されている
  • ・・・が、その平安京の鬼門除けそのものについても疑義はある

 「平安京の造成には風水が利用されている」おそらくこの記事を見て頂いている方ならばどこかで聞いたことのある話かと思います。

 実際に平安京の都市計画において風水思想が用いられたことは疑いのないことで、風水で言う四神相応の土地を選んでこの平安京は造成されています。

 平安京、特に政治の中心地であった御所から見た北東方位には比叡山延暦寺や日吉神社、鞍馬寺等が存在し、そして南西には石清水八幡宮が存在し、それらは鬼門、裏鬼門の害を防ぐために建立されたものだと言われています。

 また、上にあげた写真、京都御所の北東においては「猿が辻」と呼ばれるように北東の角を取った建築をしていることなどもよく例として挙げられるものです。

 ・・・ですが、歴史学者村上瑞祥氏が寄稿するLIFULLHOMESの記事に次のような記載があります。

平安京を記した古地図である「花洛往古図」に鬼門除けらしきものは見当たらない。大内裏の中の建物の記載はないが、城郭と門は詳細に書き込まれており、北東の隅にはいずれの魔除けも施されてはいない。ただし都全体を見ると、その外側の鬼門に近い位置に、鬼封じとして上御霊社が配され、その延長線上には延暦寺も置かれていた。

次に、同じく平安時代の街の様子を表したとされている古地図の中で、御所内の宮殿の形状や配置まで記されている「古今都細見之図」を見てみる。この時点でも、大極殿、紫宸殿、神嘉殿に、後年の猿が辻に見られるような「缺け(※欠け)」は確認できない。

興味深いのが、一条と京極の交わるあたりに紫式部邸が描かれていることである。この地域は、いわゆる都の北東の角、鬼門にあたる場所で、本来なら荒れ地のまま放置されるか、禁足地として神聖に隔離されるはずである。

しかし地図を見ると、紫式部邸の他にも後冷泉三代帝や鷹司倫子(上東門院の母)の屋敷や、倫子が建立した西北院なども描かれている。西北院とは最晩年の道長の終の住処として建立された無量寿院の名残の一部である。つまりこの時代、都の鬼門にあたる場所には様々な住居が見られることから、鬼門に対してそれほどの禁忌を感じていなかっただろうことが推察される。

 引用元HP:LIFULLHOMES「今も京都に残る3タイプの「鬼門除け」を探してみた。触らぬ神、龍腹徳袋、角の削り落とし」

(※欠け)は筆者の追記です。

 つまり一般的に言われる平安京の鬼門除けというものも、いま言われているすべてがそのまま平安時代の真実ではない可能性があるということです。

参考HP:京阪電車「京都ツウのすすめ第百三十五回 京都と鬼門(きもん)」

  LIFULLHOMES「今も京都に残る3タイプの「鬼門除け」を探してみた。触らぬ神、龍腹徳袋、角の削り落とし」

江戸の都市計画における鬼門対策

画像引用元:私の英語・ビジネス資料「鬼門裏鬼門、将門塚を中心として」

    雑学カンパニー「天海の徹底ぶり。江戸城はいくつもの寺社で鬼門を封じていた」

  • 江戸の都市計画においてもいわゆる風水思想が取り入れられている
  • 天台宗の僧侶天海がそれらの風水(家相?陰陽道?)の指揮を執ったとされる
  • 江戸城から見ての鬼門、裏鬼門方位に寺社などを建立

 次に江戸城とその近辺についてです。現代において東京という日本の中心を創ったのは江戸幕府を開いた徳川家康であるわけですが、元近畿地方建設局長でインフラの視点から歴史を語る竹村幸太郎氏によると、この江戸という街は徳川家康が土地を開城し街の整備を行うまでは何もない広大な湿地帯であったと言われます。竹村氏の著作から一節を引用します。

江戸に入ったとき、家康の武将たちが目にしたものは、何も育たない湿地帯が延々と続き、崩れかけた江戸城郭だけがぽつんとある風景であった。彼らはこの荒涼とした風景に驚愕し圧倒され、この地に未来の希望を見出すことができなかったのだ。

           ー竹村公太郎「日本史の謎は『地形』で解ける」P29

 そして、その江戸の都市計画においては南海坊天海という天台宗の僧侶が深く関わっていたとされており、江戸城においては北東の方位に神田神社や寛永寺を、南西の方位には日枝神社を建築することで鬼門、裏鬼門除けとして機能させた、また後年には江戸城の北東のさらに先に日光東照宮を建立したこともこれと関連してよく語られるお話です。

 またここで言われるのは風水、家相だけでなく陰陽道のこともちらほらと。陰陽道に関してはわたしは全く知識がないためになんとも言えませんが。

 ただし、「玄武としての麹町台地」「白虎としての東海道」「青龍としての平川」「朱雀としての江戸湾」からなる四神相応の地だとされますが、現代に言われるような四神相応とは基準が異なるように思います。

 現代の風水、そして京都の街で見た際の四神相応の概念は「風は気を散じさせるものであり、家屋は風から守られるべき存在、そのため家屋の後方、左右は風から家屋を守る砂(さ)がある方が好ましい」という思想の中で四神相応を論じるものです。

 ですが「營造宅経」という中国の古典書には玄武方位に丘陵、青龍方位に川の流れ、白虎方位に長道、そして朱雀方位に池があることを尊い地とするとの記述があり、江戸の土地選びにはこの基準が用いられたことがわかります。

 それともう一つ鬼門のことを考えるにあたってこれら平安京や江戸の例が示すことは、この鬼門という概念においては物件の内部と物件の外的環境を区別していないということです。この点についてはもう一度最後に触れます。

現代住宅の鬼門と鬼門封じ(鬼門除け)

 さて次に現代の住宅においてよく言われる鬼門封じについてです。さまざまな文化、慣習が残ると言われる京都の街においてもこの鬼門封じの様式を見ることができるもので、それに関する論文も踏まえて紹介します。

一般住宅のヒイラギや南天、鬼瓦などによる鬼門除け

  • 現代の一般住宅においても鬼門除けは行われていることがある
  • 庭の北東、南西方位にヒイラギや南天の植樹、鬼瓦の設置等

 京都や江戸においては北東や南西の鬼門、裏鬼門方位に寺社を建立することや塀を凹ませて作ることで鬼門除けとしていることを観てきました。

 では一般の住宅においてはどのように鬼門除けを行うのかというと、一般に言われるものは自宅敷地の北東方位に「ヒイラギや南天などの、尖った葉を持つ植物を植える、あるいは鉢植えを置く」ことだとされています。

 南天は「難を転じる」という意味もあり、昔ながらの家を見るとよく庭の一角に南天が赤い実を付けているところがあるかと思います。また、北東方位の屋根に鬼瓦を設置したり、庭の北東方位の地面に鬼瓦を設置をすることもされていたりします。

京都の住宅等における鬼門除けの風習

  • 京都などの地域では今も色濃く鬼門除けの風習が行われている
  • 京都などでは白い玉砂利を使用する鬼門除けも行われている

 次に現代の京都における一般住宅の鬼門除けです。

 京都においては先に挙げた鬼門除けの他、自宅の北東方位の敷地内に四角く区切った桝形の黒御影石などの中に、白い玉砂利を敷き詰める鬼門除けが一部行われているようです。

 なお、この京都における鬼門除けの実態については、京都産業大学特別研究員(H26年時点)の藤野正弘氏が「『鬼門除け』に見られる凶との魔除け習俗の研究ー田の字地区実地調査を主体としてー」という論文を発表しています。

 この調査においては、藤野氏が京都市内中心部の「田の字地区」において確認できた鬼門除けの事例について個別聞き取り調査を行ったものをまとめた頂いているものですが、その中で鬼門除けが確認している総数は個人宅554軒、店舗、事務所407軒、マンション111軒などを含めて実に1098軒に及びます。

 調査対象地区内の母数が不明であるためどの程度の割合の家屋において鬼門除けが実施されているのかは不明ですが、いずれにしても調査対象件数は膨大なもので、京都の街において鬼門除けという風習が今も残っていることの証明のようにわたしには思えます。

 また、京都以外でも滋賀などの一部地域でもこうした四角く区切った空間に白い玉砂利を設置する慣習があるようです。

参考論文:藤野正弘「『鬼門除け』に見られる凶との魔除け習俗の研究ー田の字地区実地調査を事例としてー」(京都産業大学日本文化研究所紀要巻 21収録)

鬼門の起源①山海経/黄帝宅経

 画像引用元:国立公図書館「山海経」

 家相学において鬼門がどのようなものか、どのように対処すべきとされているかについては上に書いたとおりです。

 ここからは北東という方位がなぜ鬼門として恐れられるようになったのか、その起源について考察していきます。まずは鬼門の起源となる文献についてですが、ここでは鬼門の起源としてよく言われる「山海経」と「黄帝宅経」についてみてみます。

古代中国の神話、地理を扱った奇書「山海経」の記述について

画像引用元:国立公図書館「山海経」

  • 「鬼門」という言葉の初出は紀元前(戦国~漢)時代の「山海経」とされる
  • 山海経曰く、鬼門とは「萬鬼の出づるところ」であるとされる
  • ただし現存する山海経にその記述は見られない

 「山海経(せんがいきょう)」は成立時期が厳密には不明ながらも、春秋戦国時代~秦、漢頃にまとめられた中国最古の地理書とされているものです。

 とはいえ上の図を見て頂いてわかるとおり、地理書といいながらもそこには神話上の動物や妖怪などについても記載されている書物で現在では奇書として扱われています。

 そしてこの山海経の中に「鬼門」というものについて歴史上初めての記述が確認できるものとされています。ただし、現存する山海経の中に鬼門に関する記述がみられるわけではなく、山海経以外の諸文献において、「山海経に鬼門という言葉が見られる」という文言が出てくることから山海経が鬼門という単語の初出だとする論が見られるということになります。

 後に紹介する水野杏紀氏の「鬼門の時間的・空間的考察」の一節からこの山海経と鬼門に関する記述を引用します。

 後漢の王充『論衝』に討鬼編には以下のように記されているとのことで、水野氏いわく同様の記述が『論衝』亂龍編や應劭『風俗通義』祀典、蔡邕『獨斷』などにおいてみられるとのことです。

山海経に又曰く、「滄海の中に、度朔の山有りて、上に大いなる桃木有り。其の屈蟠すること三千里、その枝間のことを鬼門と曰う。萬鬼の出入りする所なり。上に二神人有り。一は神茶と曰い、一は鬱皨と曰い、萬鬼を閦領するを主る。惡害の鬼は。執うるに葦索を以てし、以て虎に食わらしむ。是に於いて黄帝乃ち禮を作し、時を以て之を驅る。大なる桃人を立てて、門戸に神茶・鬱皨と虎とを置き、葦索を懸けて、以て凶魅を禦ぐ」と。

             ー水野杏紀「鬼門の時間的・空間的考察」

 わたし自身見たことのない漢字ばかりで恐縮ですが、ネット情報などを頼りにこの文を訳すと次のようなものになると解釈しています。

 大海の中にある度朔という山があり、その山には一本の巨大な桃の木が存在した。その桃の枝葉は三千里にもわたるもので、その枝の間に鬼門がある。鬼門は全ての鬼が出づるところであったが、神茶、鬱皨の二神が葦の縄で悪鬼を捉え、虎に食わせるなどしていた。

 そのため鬼門を封じるための儀式(作法?)として稀代の君主である黄帝は桃人、葦の縄、神茶、鬱皨、虎をもってこの鬼門を守護する儀礼、あるいは作法とした・・・というところでしょうか。

 原文から見るとこの時点ではまだ鬼門と北東方位を結びつけるものは出てきていない気がしますが・・・滄海については東方の大海のことのようですが、度朔山に北東と結び付ける要素があるのかどうかは私にはわかりません。

参考論文:水野杏紀「鬼門の時間的・空間的考察」(東方宗教2008-11号収録)

参考HP:ウィキペディア「山海経」

     国立公図書館「山海経」

    シズオカEXブログ「鬼門(1)度朔山」

古代中国の文献「黄帝宅経」における記述

  • 鬼門の起源として最も言われるのは唐代完成と言われる「黄帝宅経」
  • 「黄帝宅経」では北西を天門、南西を人門、南東を地戸、北東を鬼門と呼ぶ
  • 鬼門の内容については「空欠にすべし」と「厚く扱うべし」の二つの記述
  • 必ずしも鬼門が特別視された感はない
  • るろうに剣心の乾天門の由来はおそらく黄帝宅経

 黄帝宅経とは中国古代において有名な風水古典書で、中国神話紀の「黄帝」の名前を冠してはいるものの、実際の成立時期は唐代だと考えられています。

 鬼門においてはこの黄帝宅経を根拠とするものが多いことから、以下に1804年(文化元年)の苗村元長訳本から内容の一部を引用します。なお、上にあげた画像は黄帝宅経の鬼門等の記述がなされる項の方位図です。

 この図は北は下側、南が上に書かれたもので、見ると北西に「天門」北東に「鬼門」南東に「地戸(ただし文中には南東は「風門」と記述されています)」、南西に「人門」と記述があることがわかります。

天門陽首、宜しく平穏にして賓すべし。絶(はなは)だ高壮なるは宜しからず。之を犯せば家の長人を損し、頭頂を病むなどの災あり。

(中略)

鬼門は宅壅なり。氣缺薄空荒なれば吉なり。之を犯せば、偏枯淋腫等の災あり。

(中略)

風門は宜しく平缺なるべし。稫首と名く(なづく)。枯に背して榮に向ふ。二宅五姓八宅竝(ならび)に高壮壅塞すべからず。

(中略)

人門は龍腹なり。宜しく牛馬の厩を置くべし。其位、開拓壅厚ならんことを欲す。亦稫嚢と名く(なづく)。重うして兼ねて寶すれば大吉なり。

             ー苗村元長訳「黄帝宅経」

【?】はサイト管理者によるもので、判読が特に困難だと感じた部分です。

 というのが黄帝宅経における鬼門などの記述です。

 が、この時点でおそらくいくつも疑問が湧くのではないかと思います。そもそも鬼門というのは、天門、鬼門、風門、人門のうちの一つであり、北東の鬼門のみが特別視されているものではないこと。

 またこれらの方位のみならず、この文においては24方位全てにおいてこのような記述が続くものでそもそも鬼門は24方位のうち「艮」の方位だけを指すものであること。

 またここに挙げた4方位以外でも複数の方位において不吉な言葉が並ぶものがあります。

 ・・・そして、実はこの黄帝宅経にはもう一回この鬼門に関する叙述が出てきます。以下に引用します。

乾は天門、陰の極、陽の首(はじめ)なり。亦(また)枯に背して榮に向ふと名く。其位、舎屋連接して長遠高壮潤【?】賓なれば吉なり。

(中略)

艮は鬼門、龍腹稫嚢なり。宜しく厚うして寶重なるべし。吉なり。

(中略)

癸風は宜しく平穏なるべし。壅塞するは宜しからず亦陽極にして陰前、榮に背して枯に向ふと。宜しく空缺通疎なるべし。大いに吉なり。※

(中略)

坤は人門、女の命座なり。宜しく馬厩【?】を置くべからず。之を犯せば、偏枯淋腫等あり。

             ー苗村元長訳「黄帝宅経」

【?】はサイト管理者によるもので、判読が特に困難だと感じた部分です。

 鬼門に関する記述において、一方は薄くして吉としたのにも関わらずもう一方では厚くすれば吉と述べられている・・・というよりも、二つの文章で方位を反転させたような内容が描かれているようにも思える記述です。

 後に新井白石の「鬼門説」について触れる際にもこの矛盾は出てきますし、そこでこの鬼門に関する文の現代語訳は出てきますのでここでは詳しくは触れませんが明らかに矛盾があるように感じます。

 現状としては鬼門の論理上のバックボーンとして最も用いられているものがこの黄帝宅経なのですが、ここでの記述はこのように曖昧なものと言わざるを得ないところです。そもそも悪いと言えど、「薄くすれば吉」との文章が元なのですから。

 ですから少なくとも、「風水古典書の黄帝宅経の記述にあるから鬼門は不吉なものなのだ」という単純なロジックは成立しえないことはこの文を見ればわかっていただけるのではないかと。

 なお、わたしの所有する苗村元長訳「黄帝宅経」はとても見づらく、私の文字起こしに誤字がある可能性が高いです・・・ので、申し訳ありませんがこれらの引用は厳密なものでなく、なんとなくの参考程度にして頂けると幸いです。

 また超余談ですが、るろうに剣心劇場版の「乾天門」はこの概念から名づけられている気がしています笑

参考文献および画像引用元:苗村元長訳「黄帝宅経」

参考HP:コトバンク「黄帝宅経」

鬼門の起源②丑寅は一年の時間的境界であり陰と陽の境界

丑寅と時間、方位のこと

  • もともとの中国哲学において方位と時間は同一の基礎を持つ概念
  • 一年は寅の月から始まり丑の月で終わるもの
  • 丑寅の区分は一年の終わりと始まり、陰と陽の境界
  • 方位においてもその考えが伝播し北東の丑寅方位を不吉とした可能性がある

 次に参考になるものとして、もともと中国の思想においては「時間」と「方位」の概念が同一の基礎を持つものとして扱われているということがあげられます。

 なんのこっちゃという話ですが、時間という概念の成立過程を考えてみると太陽と地球の位置関係と地球が角度を変える自転が私たちが時間や季節と呼ぶものの正体ですので、天体の位置関係こそが我々が時間と呼ぶものだということです。

 仮に何らかの理由で地球の自転速度と地球の公転周期が大きく異なったとした場合には、その世界の時間という概念は今とは大きく異なるものになるでしょうから。

 下に挙げる図は中国風水における二十四坐山、つまり360度を15度区分ずつの24分割した図(先の黄帝宅経にも出てきた方位図を円形にしたものです)ですが、ここでは真北が「子」、真東が「卯」といったように、十二支が入っていることがわかります。

※図は風水のルールに則って北(子)の中心を下側に書いています。

 この24区分において北東の方角とは「丑・艮・寅」の3方位を指すものですが、たとえば「丑寅の方角」と呼ばれる方位が北東を指しますし、「子午線」が南北を結ぶ方位を指す用語であることを知っている方も多いことでしょう。

 そして、時間区分においても「午前」は午の刻の前、「午後」とは午の刻の後をもともと指していたものですし、また「丑三つ時」という呼称は深夜二時~三時頃を指すもので、2023年は卯年(正確には癸卯年)、戊辰戦争は「戊辰年」に起こった戦争です。

 こうしたことからも中国文化圏において時間と方位はもともと同じ根底を持つ概念であることは理解していただけるのではないかと思います。

 ここに「十干/十二支と方位・時間と四柱推命の蔵干」の記事から十二支の持つ方位、時間や季節をまとめたものを引用しておきます。

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十二支五行陰陽方位月(新暦)二十四節季時間
子(ね)陽+12月大雪~23~1時
丑(うし)陰-北東1月小寒~1~3時
寅(とら)陽+2月立春~3~5時
卯(う)陰-3月啓蟄~5~7時
辰(たつ)陽+南東4月清明~7~9時
巳(み)陰-5月立夏~9~11時
午(うま)陽+6月芒種~11~13時
未(ひつじ)陰-南西7月小暑~13~15時
申(さる)陽+西8月立秋~15~17時
酉(とり)陰-西9月白露~17~19時
戌(いぬ)陽+北西10月寒露~19~21時
亥(い)陰-11月立冬~21~23時
二十四節季はなじみがないかもしれませんが、春分、夏至、秋分、冬至といった季節区分は二十四節季の一部ですよ。

 そしてこの表において「寅の月」は2月だとされていますが、この2月とは新暦(現在のカレンダーです)におけるもので風水や四柱推命などではこの暦を使用し、2月の立春から新年が始まるものとされます。

 つまりよくニュースで見る中国の旧正月というのは寅の月が始まった時期のことを言い、それは例年2月4日頃の立春の日に相当するものだということです。

 それは言い換えると丑寅の時期というものは一年終わりと始まりの境界となる時間区分のことを指すものであるわけです。

 さらにこれを陰陽の思想に重ねていうならば、丑寅の期間とは「陰と陽の境界」ということができるもので、陽の気と陰の気が入り交じる不安定な時間帯だという考え方がここに成立します。

 そうした思想の中でたとえばそれは幽霊が出るかもしれない不安定な時間帯であり、それが方位の概念と繋がることによって霊的な力が働くかもしれない不安定な方位だという認識に繋がっている可能性があるということです。

 この考えを基礎に持つと、北東を「鬼門」と呼んだ「黄帝宅経」の記述が理解しやすくなるかもしれません。

※なお、この時間と方位の問題については拙文「十干十二支と方位・時間」の記事にもう少しだけ詳しく書かせて頂いてます。

参考論文:水野杏紀「鬼門の時間的・空間的考察」(東方宗教2008-11号収録)

「鬼」の意味とは

  • 鬼門における「鬼」の意味は魄(はく)、つまり霊魂のこと
  • 日本昔話の「鬼」のイメージは日本で作られたもの
  • 日本の鬼のイメージは「丑」のツノに「寅」のパンツ

 では次に、鬼門の「鬼」ってなんなんだ?と思った方もいることでしょう。

 結論から言いますと鬼門における鬼がもともと意味するところは「霊魂」のようなものだとされています。

 先に書いたように丑寅の境界は陰陽の境界、つまりある意味で生者の空間と死者の空間の境界を意味するものです。

 その生死の境界の曖昧なところから霊魂が出づる可能性がある・・・というところから鬼の概念は来ているものですので、いわば霊道に近いものがもともとの鬼門の捉え方であったということができるのかもしれません。

 絵にあるような鬼のイメージは日本で作り上げられたもので、丑寅の方位から来るものだから丑のツノに寅のパンツを履いているというところなのでしょうね。山海経においては鬼除けのために虎を置いていたものなので既にイメージは崩れつつあるのがわかります。

参考HP:LIFULL HOMES「「鬼門」とは? 鬼門との正しい付き合い方、日本人が恐れる鬼の正体とは」

鬼門の起源③古代の地政学と日本の住環境

地政学における北東方位は古代中国の匈奴、古代日本の蝦夷の方位

画像引用元:WIKIPEDIA「行基図」

  • 古代中国政府にとって北東は匈奴という外的が存在する方位
  • 古代日本政府にとって北東は蝦夷という外的が存在する方位
  • 朝廷が北東を特別視するにはそうした地政学的な土壌があった

 さて、こうした北東を忌む風習についてですが、もともと風水は王朝、王族を強化させ国家の繁栄のために研究が続けられてきたもので、もともとは一般民衆の生活向上のために用いられてきた学問ではありません。

 そうした中で、前3世紀以降たびたび中国の歴代王朝を苦しめてきた「匈奴(きょうど)」という民族がおり、それは様々な民族がありながらも多くは現在のモンゴル、つまり多くの中国王朝から見た北~北東の方位に拠点を置いていた騎馬民族のことです。

 あるいは匈奴と聞けば原泰久先生の漫画「キングダム」を連想する方もいるかもしれません。・・・わたしもその一人ですが笑

 キングダムにおいても天才軍師リーボックが率いる趙が国家防衛のために雁門で匈奴と戦う姿が描かれているように、古代中国において匈奴民族がいかに王朝を苦しめてきた存在であるかは推測することができます。

 ちなみにこの匈奴が中国の歴史上に現れ、ときの政権を脅かした時期はキングダムに描かれる春秋戦国時代~漢の時代であるとされており、もとは中国の北方に広く分布していた匈奴が東西に、その後南北に分裂し、最後まで中国政府に楯突いた北匈奴が本拠を現在のモンゴル付近に置いたのが紀元40年頃、漢の時代だとされています。

 つまり先に挙げた山海経の成立時期に一致するということです。

 また、その後奈良時代にこうした山海経などの思想が日本に伝わったとするならば、当時の朝廷は東北地方に住む蝦夷に苦しんでいたわけです。

 上にあげた地図は奈良時代の僧侶である行基が作成したものと伝えられる古代の日本地図ですが、この地図において東北に「蝦地」という記述が確認できます。

 この地における蝦夷を打つために特権を与えられた朝廷軍の大将に与えられた役職名が「征夷大将軍」であるわけですが、この征夷大将軍が当時の朝廷軍の最高権力者であり、後にはその征夷大将軍という役職名が幕府の最高権力者となることを考えても、古代日本政府がどれだけこの北東地方というものを恐れていたのかは想像に難くありません。

 つまり・・・中国において「鬼門」という言葉が生まれた時期は王朝の北東方位に住む匈奴という異民族が王朝を苦しめた時期に相当し、その概念が伝わったとされる奈良時代における日本では北東に住む蝦夷という異民族の問題を朝廷が重視していた時期に相当します。

 そうした中で「鬼門」という方位そのものが「国家繁栄の敵となる存在が襲来する危険な方位である」という認識に繋がっても不思議ではないと私は考えています。

参考HP:世界史の窓「匈奴/匈奴帝国」

    刀剣ワールド「征夷大将軍」

日本の風土における住宅内部の北東と南西方位について

空調設備などが存在しなかった過去の京都や江戸などの住環境において・・・

  • 北東は住宅の中で太陽の光が最も当たらない方位であり、冬場などに冷えを誘発する方位であった
  • 南西は昼下がり以降の最も日中温度が高い時間帯において日の光が差し込む方位であり、夏場などに雑菌の繁殖を誘発する方位であった

当時の日本政府関係機関や政府関係者が北東を忌む建築様式を取り入れる中で、これらの住宅生活における事情も相まって北東を忌む習慣が民衆レベルに波及したのではないかとわたしは推測してます

 先ほどは日本政府(朝廷)が北東を恐れた理由について書きました。ですが先の蝦夷の方位という理由はあくまで朝廷にとっての敵の襲来する方位であり、それだけで一般家庭にこの思想が広まる理由にはなりません。

 ですが当時の朝廷関係施設や朝廷関係者、あるいは江戸幕府の関係者が北東を特別視しているという噂は当時の都に広まったことでしょう。そうした中で日本の風土における電気がなかった時代の一般家庭での生活を考えると次のような状況を想像することは可能です。

 大部分の日本の風土において、北東方位は太陽が当たらずに冬場に体を冷やす方位であった。そのためにお風呂やトイレという水回りをその方位に配置することは今でいうヒートショックを起こしうる方位であったであろうこと。

 また、南西方位は日中で最も温度の高くなる昼過ぎ以降西日の時間帯までの太陽光が差し込む方位であり、温度が比較的上がりやすい方位です。つまりその方位は夏場に温度が高く雑菌が繁殖しやすい方位であり、玄関や台所の方位として不適切であったであろうこと。

 そして平安時代~江戸時代の幕府関係施設が北東鬼門を恐れる中で鬼門除けの建築を取り入れたことは先に書いた通りですが、こうした建築や幕府関係者が信じる北東鬼門説は、一般家庭生活における実用レベルの知識と相まって民衆レベルに波及したのではないかとわたしは推測しているところです。

 もちろんこの住宅内部の環境という理由だけで北東と南西が特別視されるとは思いませんが、京都や江戸の街で鬼門除けが噂に立ち上る中でこうした住宅環境はその噂の後押しをするに足るのではないかということですよ。

鬼門の先行研究

①新井白石の「鬼門説」

画像引用元:ウィキペディア「新井白石」

  • 新井白石は江戸幕府6代将軍、7代将軍の教育係であり、当時の政治の重鎮
  • 白石は黄帝宅経等の矛盾点から鬼門は気にするべからずと説く
  • 江戸城においても必ずしも鬼門が全て重視されていたわけでないことを説いた

 この記事を書くにあたり、北東鬼門がどのようなものなのかを専門的に扱った著作(あるいは論文)を探したのですがわたしは二つしか見つけることができませんでした。

 ひとつめは江戸時代の儒学者新井白石の著した「鬼門説」で、もう一つは現代の水野杏紀氏の「鬼門の時間的・空間的考察」です。鬼門の起源における記述は大いにこれらの文を参考にさせて頂いて書かせて頂いているもので、水野杏紀氏においては「營造宅経」の訳も行っていただいており、非常にありがたく拝読させて頂きました。

 まず新井白石(1657年~1725年)の人物についてですが、白石は「3歳で父の儒学書を書き写していた」という伝説を持つ天才です。この逸話が嘘か本当かはさておき、そのような逸話が出るほどの恐ろしい頭の持ち主だったのでしょう。

 白石はその非凡な頭脳から朱子学の大家である木下順庵に認められ、後には一介の旗本の出身ながら江戸の6代将軍徳川家宣、7代将軍家継の教育係、そして側近をなす政治家として「正徳の治」と後に称えられる国政の中核をなした人物です。

 そしてその白石が記した鬼門説ですが、以下にその一節を引用します。

 以下は『鬼門という事、「黄帝宅経」に見える所は・・・(中略)東北の隅を鬼門と名付けた。しかし説が異なる説が二つ書かれたものである。』という前段に続く文章です。

一つには「この方に宅を造れば気をふさぐので、缺けて(※欠けて)薄く、空にするのが吉であるとする。もしそうでなければ、偏枯、中風となり、薄命であり、軽い淋病腫気の病があるとする。

もう一文では以下のように記されている。

「艮(うしとら)の方は鬼門である。龍腹徳嚢の地とも名づける。この方は徳篤にすることがよい。そうすれば重なる吉事が有るであろう。もし、缺けて(※欠けて)薄い時は貧窮となるとしている。

白石は、前の説は(艮鬼門は)缺く(※欠く)ことがよいとあり、後の説は厚実にすることがよいとある。二つの説は(その説くところが)同じでなく、一定していないとする。

           ー水野杏紀「新井白石『鬼門説』についてー翻刻と注解」

(※)は本サイト管理者の追記です。

 白石はこのように、鬼門思想のもととなる「黄帝宅経」や「山海経」の矛盾を論じる形で鬼門を恐れるべきでなく、鬼門はただの民間信仰に過ぎないという立場を取っています。

 また先に挙げた江戸築城において「徳川家康が鬼門を重視した」という話についても白石は一石を投じています。

 曰く、家康の江戸築城の際に、北東方位にある橋に不安を覚え、橋の方位を変えるよう家康に進言した家臣たちに対し、「それならば橋の名前を「筋違門橋」と変えたら良い」と家臣に伝え、方位を変えることなく筋違門橋を採用したという逸話です。

 厳密にこの話が家康の話であったかどうかには疑義があるようですが・・・このような逸話が江戸城内で語られており、実際に筋違門橋が江戸城の鬼門方位に建立されていることからも、必ずしも鬼門というものが絶対に忌避すべき方位として扱われていたことではないことが見て取れるものです。

 つまり、平安京と江戸の二つの実例における鬼門の扱いは現在よく言われているように「絶対的な凶として避ける風習があった」とするものだと断定することはできないもので、そこには疑問の余地があるということです。

※なお参考までに・・・水野杏紀氏はこの白石の「黄帝宅経の二つの記述」に対する理解が誤解であったとする可能性を残しています。この記事では深くは触れませんが黄帝宅経の記述は陽宅(住宅のこと)と陰宅(お墓のことです)の二つを論じたものではないかとする説に触れています。

参考論文:水野杏紀「新井白石『鬼門説』について:翻刻と註解」(人文学論集. 26, 2008収録)

参考HP:ウィキペディア「新井白石」

②水野杏紀氏の「鬼門の時間的、空間的考察」

  • 「山海経」「黄帝宅経」「六壬式盤」「史記」「漢書」「景祐六壬神定経」「隋書」等様々な文献からの鬼門の記述について精査
  • 「易」における艮卦の象意も含め、北東が鬼門とされたことは「時間の境界である」という時間的な要素が強いと論じる
  • 丑寅は夏至に太陽が昇る方位
  • そうした空間的、時間的な意味から鬼門という概念が成立したものと説く
  • 農歴の立春の前日は日本で言う節分、「鬼は外」の豆まきはこの時間的境界の鬼を祓うための儀式的慣習か

 次に、大阪府立大学客員研究員、熊猫学舎文化研究所主宰などをされている水野杏紀氏の論文「鬼門の時間的・空間的考察」についてです。

 この論文においては、「山海経」「黄帝宅経」はもとより、「敦煌文書」、「六壬式盤」「史記」「漢書」「景祐六壬神定経」「隋書」など実に多岐に渡る書物から鬼門にかかる記述を比較検討したうえで鬼門の起源を論じるという凄まじい内容となっています。

 これらの書物の中にはわたしが未読のものも多くその内容について要約することは論文を貶める結果ともなりかねないため詳述は避けますが、鬼門の起源に関する水野氏の文を少し引用させて頂きます。

建丑と建寅の境界に位置する大晦日は一年の境界であり、そこは厲鬼、疫鬼が出現するところとされていた。これを祓うことで、新年、春を迎えられたのである。この丑寅の時間的な特徴が、丑寅の間が鬼門とされた所以であろう。

そして、十二支の時空構造により、丑寅は時間と空間を示すものとされ、丑寅は空間ではその間が東北方であることから、東北が鬼門とされたものだと考えられる。

(中略)

『易』の艮卦をもとに、鬼門は萬物の循環の終始をつかさどるものとされ、死生にかかわるところとされ、鬼(死者の霊)の幽冥界の門とされたのであろう。こうして『易』によって鬼門の論理補強がなされたものと推定される。

             ー水野杏紀「鬼門の時間的、空間的考察」

 わたし自身水野氏の文を読むまでにも鬼門の起源を丑寅の時間的境界に求める説は聞いたことがあったのですが、この論文の説得力はすさまじいものを感じました。先に挙げた「鬼門説」や「敦煌文書」についても水野杏紀氏の訳していることもそうですが、如何に水野氏が真摯に鬼門に向き合っているのかがうかがい知れます。

 また水野氏は「隋書」列傅蕭吉傅の文を引用する中で、鬼門の反対方位、つまり南西の人門においても鬼門と同じく異界の者が出入りする門とされていることを挙げています。

※ちなみに水野氏の「易、風水、暦、養生、処世ー東アジアの宇宙観ー」においては、この丑寅の時間的区切りである立春の前日、つまり日本で言う節分の日に「鬼は外」と豆まきをする風習そのものもこの丑寅の時間的境界である中で鬼を祓うという慣習として残った可能性が示唆されており、非常に興味深いです。

 講談社選書メチエの「易、風水、暦・・・」に関しては電子版も発行されていますよ。

参考文献:水野杏紀「易、風水、暦、養生、処世ー東アジアの宇宙観」

参考論文:水野杏紀「鬼門の時間的・空間的考察」(東方宗教2008-11号収録)

鬼門の起源についてのわたしの考察まとめ

 さて、この記事における鬼門の起源に関する考察はこれでおしまいですが、これをまとめてみますと・・・

 山海経において鬼門と呼ばれる悪鬼が訪れる場所というものがあり、黄帝宅経においてそれは北東方位だとされていた。そこには一年の境界の季節であり陰陽の入れ替わる境界であった丑寅の時間的境界、そして北東方位というものを特別視していた可能性がある。

 そして当時の中国政府は北東の匈奴を恐れ、風水思想の一端が日本に伝わったと考えられる当時の日本政府は北東の蝦夷を恐れていたため、日本政府は鬼門除けの文化を政府関係機関に取り入れ、それは平安京のみならず江戸幕府にも受け継がれた。

 そうした特殊な建築、思想は当時の政府関係者からの伝聞やその施設を観た一般庶民の間で噂として上る中で当時の生活様式における北東、南西方位を使うための生活の知恵と相まって一気に普及したのではないか。

 そして日本においてこうして鬼門が独自発展を遂げたものは中国風水の思想からではなく、たとえば陰陽道などの日本独自の思想によるものだろうというのがわたしの推測しているところです。・・・単なるわたしの推測ではありますが笑

 なお、裏鬼門については南西方位は黄帝宅経で「人門」と呼ばれることは見てきたとおりで、水野氏が挙げる「隋書」列傅蕭吉傅で鬼門と同じく人ならざる者の出入りする方角として記載されていることなどから、陰陽道の中で裏鬼門という概念が日本独自に育まれたものだろうと思われます。

 それではここからは鬼門や裏鬼門を使用していた偉人宅と、諸外国の風水における北東方位の扱いについて考えていきます。

明治期偉人宅における鬼門と裏鬼門の玄関・水回り

 さて、それではこの鬼門という概念を過去の偉人たちはどのように捉えていたのでしょうか?これまでに見てきたように、江戸時代においてはすでに庶民においてもこの鬼門の概念は広まっていたようですが、もちろん過去の偉人たちが皆この鬼門を避けて生活を送っていたわけではありません。

 戦後時代の例を挙げるならば、家相研究家の小池幸寿氏の「日本人なら知っておきたい正しい家相の本」に、戦国時代の城主たちがこれらの鬼門に立ち向かうように厠(トイレ)などをあえて北東方位に配していた例が挙げられています。

 その実例としては安土城、丹波福知山城、岡山城、姫路城などです。

 そしてここからはネット等で情報を得ることができたものとして、実際に北東、南西に不吉とされる設備があった住宅の例として森鴎外と夏目漱石の住んでいた借家と福沢諭吉の住んでいた旧宅をみていきます。

参考文献:小池幸寿「日本人なら知っておきたい正しい家相の本」

森鴎外・夏目漱石の借家「猫の家」は北東にお風呂とトイレ

  • 森鴎外・夏目漱石の住んでいた借家は北東にお風呂とトイレがあった
  • 以降の活躍は知っての通りです

画像引用元HP:無印良品の家「日本人と茶の間」

 さて、この間取りは森鴎外、夏目漱石がかつて暮らしたとされる東京駒込千駄木の借家のもので、森鴎外はこの住宅に住んでいた1890年から1年余りの時期に「文づかひ」を、夏目漱石は1903年から3年程度の期間この住宅に住み、その時期に「吾輩は猫である」を発表したとされています。

 現在は愛知県の「明治村」にレプリカが建築されていますが、この住居がもともと建てられていたのは東京都文京区になります。

おわりに/風水の最終目標は家族の幸せ

 さて、これでこの記事はおしまいです。

 正直この鬼門に関する記事を書こうと思い立った時点では結論は次のようなものを想定していました。

 「鬼門の概念は日本だけのもので北東を一律に恐れる必要はないが、物件によっては北東が悪いものもある。とはいえ鬼門は日本の文化的慣習であることに変わりはないので、自身のコミュニティと喧嘩してまで鬼門除けを否定する必要もないですよ」

 なのですが、インド風水の北東を調べる中でかなり記事の方針が変わってしまったことは否めません。なんならインド風水のことを見て見ぬふりをして記事を完結させようかとも思ったことも・・・笑

 とはいえ、日本には鬼門を避けるという文化が現にあることは確実で、かつインド風水においてもそれが一部は補強されうるというものもわたし自身まだうまく消化ができていないというのが本当のところです。

 ただ、この問題はこれから自分自身が様々な実証を重ねていく中で見えてくるものもあるでしょうし、もちろん偉大な先達の方々からのお話を聞く中でも見えてくる、あるいは違った結論を持つようになるかもしれません。

 ただこうした鬼門という文化が日本に根付いていることは否定の使用がない事実です。

 もちろん鬼門を避けて!と謡う方の中には単なるビジネス目的で鬼門対処としてお金を取ることを生業とする業者もいることでしょうから、どうかそうした方たちには気を付けて頂ければとは思います。

 そうした業者に該当するかもしれない方に出会ったときにこの記事の知識が活用いただけたならとても嬉しく思いますし、浅いロジックで不安をあおる相手ならこの記事の知識でじゅうぶん論破はできようかと思いますし。

 「あなたの自宅の風水は危険だがこのお水を買ったら大丈夫!」「このパワーストーンで開運!」「このお札があなたの自宅を守ります!」なんてのはすべて同じ話ですよ。それらは少なくともわたしが信頼している風水ではありませんしどう考えても理にそぐいません。

 ですがいずれの理論であれ風水や家相というものの最終目標は「家族が幸せに暮らす家に住むこと」です。悪徳業者に騙されかけている家族を説得するのでもなければ喧嘩してまで鬼門を否定するような必要はきっとないだろうと思っています。

 ですから最後に優先すべきものは家族の幸せ、そのために北東というものをどう考えるのかということがいちばんの問題なのだとわたしは考えていますよ。

 それではこの記事はここまでです。現時点の私のサイトで最も長い記事となってしまいましたがここまで読んでいただき嬉しく思います。ありがとうございました。

 鬼門に関する記事以外にも、中国風水の理論や鑑定例などの記事も書いていますのでよかったらそれらを読んでいただけたらありがたく思います。

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